全く知らない声だった。
暗い闇から聞こえる声は、間違いなく自分に言っているものだ。身体にまとわりつくような黒い闇は声が近づくと同時に離れていくような感覚をさせた。
−良い子
まるで何かを慰めるような、何かに諦めたような感情を含んだ女性の声。水面から聞こえるよう声。
声がする度、頭の中に水の波紋が広がるような、そんな頭痛に似たような感覚をさせた。
誰だ、と思っていると遠くから聞こえてくる声は段々と近づいてくる。それと同時に遠くから光が見えてくる。
−良い子
誰だ?
―良い子・・・私の・・・
知らない。オレはあんたなんて知らない。
そう答えた時、光が目の前で弾けて、消えていった。光が弾けると同時にまた肌にねっとりと絡みつくような闇が戻って繰る。
弾け消えると同時に、今度は聞き覚えのある声がした。
悲しい獣の吠え声が・・・。
「遊星」
遊星−は名前を呼ばれてゆっくりと目をあけた。所々に糸が解れ、薄く汚れたアイボリー色のソファーからゆっくりと上半身を起き上がらせ声の主の方に目をやる。布団の代わりに身体にかけていた自分の青い上着が起き上がると同時に足元に音を立てて落ちた。
いつの間にか朝になっていたようだ。窓から見える廃墟のビルとビルの間から見える太陽の光が部屋を照らしていた。
「珍しいな、いつもなら気配で直ぐに起きるのに」
「・・・」
声の主である男は、少し生えた無精ひげのある顔を薄く笑いながら人差し指で掻き、朝日が届いていない薄暗い奥の階段を指差す。
「ほら、朝食作ってあるから、顔洗って食べに来いよ」
「ありがとう、雑賀」
どういたしまして、と言って雑賀は笑いながら階段を上って行った。
確かに、いつもなら誰かが側にいれば気配で気付くはず。なのに今回は不思議と熟睡していたらしい。
まだ冷たさが残るコンクリートの地面を指で感じながら、遊星は落ちた自分の上着を拾う。
―あの声は誰だ?
自分を呼んでいたような、そんな声。夢から覚める前に比べて声は微かだが頭の奥に未だ響いている。あんな夢なんて今まで見た事も感じたこともない。
そしてあの光が消えた時に聞こえた獣の声・・・
「飯が冷めちまうぞ、それにチビ達との約束があんだろ?」階段の上から聞こえてきた雑賀の声が頭の中に響いていた声を掻き消した。
遊星は金色のメッシュの入った頭を掻くと側にあった赤いバイクの座席に上着を投げかけ階段に向かって歩いていった。