幼い頃の記憶というのは、殆どが曖昧なものだ。
それが本当にあったのかすら、怪しいくらいに。
しかし心に受けた物というのは、決して忘れる事は出来ない。
オレはたとえ何があろうとも
オレはずっと
お前の側にいるから
有毒な物質が含まれた雨が、まるで滝が流れ落ちるような音を立てながら、空から大粒の水を降らせている。
その下を、6歳くらいの水色の髪をした少年は、何かを必死で叫びながら走っている。必死で喉から搾り出す声も、雨音で全てかき消されている。
着ている服は肌にへばりつき、長時間、雨に打たれているのを物語っていた。少年は顔に流れる雫を手の甲で拭きながら走る。服から露出している肌は幾つか怪我をしており、赤い血が雨水と混ざり、地面に吸い込まれていった。
やがて彼は廃墟と化した劇場の跡地へとたどり着く。少年は鼻を啜りながら中へと入っていく。
扉を潜ると大広間に出る。目の前にある階段は途中で左右に分かれ、それぞれの部屋がある廊下へ繋がっており、天井には天使を彫った彫刻が蜘蛛の巣をまきつけ、不気味な笑みを称えている。足元に天井の装飾品が無残に剥がれ落ち、一歩踏み出すと、ガシャと音を立てて砕けるほどに脆くなっていた。穴の開いた天井からは雨が降り注がれる。
しかし彼はそれには目をくれず、左右に分かれた階段の踊り場まで登る。雨音に混じって微かに聞こえる泣き声に、彼は足を止める。
「・・・遊星?」
その声に反応して、階段に座り込んでいた小さな影は一瞬ピクリと体を動かし、ゆっくりと膝に埋めていた顔をあげる。その少年の腕には自分が着ていた紺色の上着が抱かれており、その隙間から何かの生き物であろう、小さな塊が見える。
「き・・・りゅう・・・」
その声に気が付くと、遊星は服で目を擦る。−泣いている。そう思った鬼柳は自分より小さな少年に近付いた。
「・・・あいつら、ぶん殴っておいたけど・・・」
「・・・」
「やっぱり・・・駄目だったのか」
「・・・どんどん冷たくなって・・・暖かくしようとここに着たけれど・・・」
ゆっくりと遊星は抱きしめていた「それ」を鬼柳に見せる。目を閉じて横たわっていたのは、一匹の猫だった。真っ白だった毛並みは泥と血で黒く染まり、元の色を失っていた。
「あいつら、自分達の縄張りだからって、ここまでする事ないのに・・・」
上着に包まれた猫の腕に触れる。足元に転がっているような装飾品のような触り心地に、石のように硬くなった身体を感じ、死んでから何時間も経っている事を物語っていた。
「こいつ・・・ずっとオレの事を見てた」
静かな声で遊星は言う。
「何を言おうとしたのか解らないけれど、その後目を閉じて動かなくなって・・・」
「遊星・・・」
海のような深い蒼色をした瞳から雫が溢れ、猫の身体に落ちていく。
「何度も擦ったんだ!だけど全然、暖かくならないんだっ・・・!」
「遊星!」
押し殺した声で再び猫を抱える遊星に、鬼柳は遊星の肩を掴んだ。捕まれた肩の暖かさに思わず遊星は顔をあげた。
「お前のせいじゃない!こいつがこうなったのは、お前のせいじゃないから!!」
「鬼・・・りゅ・・・」
猫を抱きかかえたまま、遊星は鬼柳の肩に自分の顔を埋めると、普段の彼からは想像も付かないような声で泣き崩れた。
「守れなかった・・・オレ・・・こいつの事を!」
声は皮肉にも、雨音にかき消される。
昼間でも排気ガスの渦巻いているサテライトは、ひんやりとしていて肌寒かった。
ブルッと軽い身震いをして、露出している腕を触れながら遊星は一人、廃墟となったビルの中へと入っていく。入って直ぐにある、殆ど原型を留めていないコンクリートの階段を、慣れた足取りで登っていく。一歩階段を登る度に崩れる階段は、全て登りきるまでには、登る前の原型をとどめていない。
登りきると、すぐに黒いスプレーで「サティスファクション」と殴り書きで書かれているドアの前に立つ。。同時に中から何かを押し殺したような声が聞こえる。それが誰の声なのか直ぐ理解すると、遊星はふう、とため息をつき、ドアの前で立ち往生する。
「・・・誰だぁ・・・?」
気配を感じたのか、部屋にいる男は問いかけた。その問いかけに遊星は静かな口調で答える。
「オレだ鬼柳」
「・・・入れよぉ」
鬼柳の口調を感じ、一瞬入るのを戸惑う。何をしているのかはもう理解していたからだ。
「どうしたんだよ遊星ぃ・・・来いって言ってんだから来いよ・・・?」
その言葉に暫く黙って立っていた遊星だが、やがて静かに扉を開いた。
ギギ・・・と錆びた金属音がビルの中を木霊し、遊星の耳に響く。同時に部屋の中を見て、彼は「ああ、またか」と心の中で呟く。
何処からか集めてきた本が、無残にもページが破られ地面に幾つか散らばり、表面が所々剥がれ落ちたコンクリートの床には、紙切れ以外に薬品が入っていたと思われるビンのガラス片が転がっている。
扉を開けて真正面にある、薄汚れた赤いソファ。声の主はソファに顔を埋めるように床に座り込んでいた。力なく投げ出されている左手からは、透明な液体の入った注射器が、カラ、と音を立てて床に転がっている。
「鬼柳・・・」
割れた窓に掛けてある色あせた毛布を静かに鬼柳の肩にかけてやると、光を無くした瞳が遊星を捕らえる。
「・・・くそ・・・ちくしょう・・・」
ガッと遊星の肩を掴む。自分の肩を掴んでいる片腕の一部からは、注射の跡が生生しく血を流している。
「どうして・・・なんでなんだよぉ!」
「鬼柳・・・」
「クロウもジャックも・・・オレを見捨てて・・・いなくなっちまうしよぉ・・・」
「仲間じゃなかったのかよ」と、弱弱しい声とは裏腹に、遊星の肩を掴んでいる腕は力を増していく。力を増すと同時に傷口からは血が溢れ出し、散らばっていた紙切れに赤い染みを作る。
「遊せぇ・・・お前もそうなんだろ?お前もオレを見捨てちまうんだろう?!」
「鬼柳、オレはお前を見捨てたりはしな・・・」
「嘘つくんじゃねぇっ!」
ドスッと鈍い音がする。腹部に激痛を伴った遊星は、腹を押えてその場に蹲る。それを見た鬼柳は立ち上がると倒れている遊星の腹部に踏みつける。
「ぐあ・・・!」
ギリギリと腹部を踏みつける足の力が強くなるにつれて、遊星は声にならない声を上げる。
「お前も結局はあいつらと同じなんだろう!?最終的にはオレを見捨てて一人にするんだろう!?」
ドカ、と腹部を蹴られる。歯を食いしばって耐えていた遊星は、腹部を押さえながら咳き込む。その隣を鬼柳は座り込み、肩を震わせながら遊星を見つめる。
「何がいけなかったんだよ・・・こんなんじゃあ満足出来ねぇってのかよぉ」
「鬼・・・りゅ・・・」
腹部を押えながら、ゆっくりと座り込むと、遊星は鬼柳の方に優しく手を置く。苦しみもがいているその瞳は、あの時見た金色の瞳と同じ、今の彼と同じ瞳の色。
―行かないでくれ、一人にしないでくれ。
「大丈夫だ、オレはお前の側にいるから」
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どうして鬼柳だけ幼少時代がないのかという疑問。